
「大分国際車いすマラソン大会」の提唱者である中村博士は、昭和27年、九州大学医学部整形外科医局に入り、天児民和(あまこたみかず)教授に師事、リハビリテーションの研究を勧められる。
昭和35年、天児教授の勧めで欧米のリハビリテーションの現状を視察する。特にイギリスの国立脊髄損傷センター(ストーク・マンデビル病院)の院長グットマン博士の医療の方法に強い衝撃を受け、日本の立ち遅れに猛然と挑戦を開始する。
「日本では、医者は骨をつなぐだけで名医と言われるが、そこでは、患者が社会復帰するまで面倒を見ており、6か月で85%の人が社会に復帰し就職していた。」
家庭に閉じこもりがちだった身体障害者も社会に出て、健常者と同様の自立を促すため昭和36年、「第1回大分県身体障害者体育大会」の開催に尽力。また、昭和39年、東京パラリンピックの誘致に尽力。
昭和40年、「保護より働く機会を」をモットーに「太陽の家」を設立、保護や慈善にたよる日本の福祉を変えようとした。また社会に対しては「世に心身障害者はあっても仕事の障害はありえない。太陽の家の社員は、庇護者ではなく労働者であり、後援者は投資者である」と啓蒙した。
昭和56年、大分国際車いすマラソン大会の開催に尽力。
昭和59年7月23日、中村博士が死亡(57歳)。その当日、イギリスの、グッドマンスポーツセンターでは、第7回世界車いす競技大会(第7回パラリンピック)が行われており、会場では半旗が掲げられ、選手、観客全員が1分間の黙祷を捧げた。
亡くなった年の第4回大分国際では、中村先生の急逝を惜しむかのように、朝から雨が降っていた。しかし、スタート直前に雨がやんだことで絶好のコンディションとなり、アンドレ・ビジェ(カナダ)が、当時世界最高記録(1時間48分25秒)で優勝を飾った。
中村博士 略歴
| 昭和2年 |
3月31日 大分県別府市生まれ |
| 昭和27年 |
九州大学医学部整形外科医局入り |
| 昭和35年 |
欧米のリハビリテーションの現状を視察
イギリスの国立脊髄損傷センターの院長グットマン博士に強い影響を受ける。 |
| 昭和40年 |
「太陽の家」設立 |
| 昭和36年 |
大分県身体障害者体育協会設立
大分県身体障害者体育大会開催 |
| 昭和39年 |
東京パラリンピック誘致
国立別府病院整形外科医長
大分中村病院院長
「太陽の家」理事長
大分県身体障害者体育協会会長 |
財団法人 中村裕 記念身体障害者福祉財団ホームページ
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